像を作り呪詛した 《飛鳥時代・歴史・人物》

用明天皇元年・586年、穴穂部皇子は炊屋姫・敏達天皇の后を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆に阻まれた。

怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。

馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。

用明天皇2年4月2日・587年、用明天皇は病になり、三宝を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。

守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。

馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。

守屋は睨みつけて大いに怒った。

史の毛屎が守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げた。

守屋は朝廷を去り、別業のある阿都へ退き、味方を募った。

排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子の像を作り呪詛した。

しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓ったが、その帰路、舍人迹見赤檮が中臣勝海を斬った。
update:2010年03月07日